「美術と建築の対話」2日目

友人が仕事を辞めるようである。というか辞める、あと二日でシゴトを。
この人には、東京行った時に僕の金銭難から二度も御馳走してもらってる。赤坂と…どこだ、あの美味しかった店は。大阪に来た際は是非恩返ししたい。
今後どうしていくのか楽しみである。一緒に仕事できないかな。


午前の間に、「民衆の鼓動」@西宮市大谷記念美術館を観る。
「民衆の鼓動 韓国美術のリアリズム1945-2005」展

韓国美術のリアリズム1945-2005という副題のように、昨日の話とは対照的に美術=社会である。
社会情勢や歴史を反映した作品の企画展というのは、(僕が観に行く中では)珍しく貴重な機会であった。


13時半より「美術と建築の対話」の2日目、安藤忠雄三宅一生の講演である。
21_21のこれまでの企画についてやISSEY MIYAKEの歴史等、三宅一生トークがメインで、
美術(=三宅一生)と建築(=安藤忠雄)の対話が少なかったのは残念である。
終盤のファッショショーは凄く貴重な体験、フォルムの美しさを生で感じることができた。これは、流行通信見てても分からない感覚だ。後方に座っていたので、裏方の人の仕事ぶりが凄い。
「粘れ」とか「諦めるな」といった言葉が多かった気がするが、この二人に言われると凄く重みがある。
後、二日間通してだが、三宅さんと内藤さんからインターネットに頼るなというコメントがあった。三宅さんは「体を動かせ」、内藤さんは「自分の側から世界に入っていけ」と。
この類の意見は(確か)博報堂のお偉いさんも同様の発言をしていたことを聞いたことがあり、今の若い世代を見ていて危機感を感じているんだろうな。


昨日より更に筋肉痛が悪化。一歩踏み出すごとに痛みが走る。


<追記>
風呂の中でボーっとしていると自分の間違えに気づいた、僕は阿呆だ。
上記に美術=社会と書いたが、そんなわけない。それらの作品こそまさに美術=反社会(=anti-social)である。
何故かこの日記を書いていた時、僕は内藤さんの言葉を美術=非社会(un-social)と捉えてしまってた。えらい違いだ。
何でこんな誤解をしたかというと、僕の認識では暴走族は非社会的だったから。僕は暴走族の衰退期を生きていて、80年前後の最盛期を全く知らない世代なのだ。その頃は反社会的だったのかも知れない。
僕と内藤さんの世代の差異がこの認識の差異に繋がっているように思う。これについて調べてみると面白そうである。
ちなみに、北海道には徒歩暴走族というのがいるらしい、凄い。
http://wpedia.search.goo.ne.jp/search/23760/%CB%BD%C1%F6%C2%B2/detail.html
川俣正が、トロント・プロジェクトの際に現地メディアから「ビジュアル・テロリスト」と言われ、ショックを受けたと著書の中で書いてたことを思い出して上記の間違えに気づいたのだが、
「ビジュアル・テロリスト」は案外、最大の賛辞だったのかもしれないな。

アートレス―マイノリティとしての現代美術 (ArtEdge)

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