七夕は別に走る日ではない

朝起きる→パン食べる→部屋の片づけ→走る
てことで、10時くらいから走る。この時期、10時は既に炎天下である。
ストロークス「Is This it」を聴きながら走るも、Somedayで既にかなり息が上がっており、Last Niteで横腹が痛くなり、New york City Copsで完全にダウン。全然駄目だ。

Is This It

Is This It

意識と心肺器官と足が全然合ってない。自分の意識ではもっとスピードを出しているはずが、大したことはなく、変に過呼吸してて苦しいとでも言おうか。ともかく体がついていってない。


トレーンング後、悩みながら村上春樹のメモワールを読了。

走ることについて語るときに僕の語ること

走ることについて語るときに僕の語ること

村上春樹の本を読むことは、僕にとって久しぶりの友人に会う感覚である。
さほど村上春樹の作品を読んでいない僕がこんなことを書くと怒られそうだが、この再会を懐かしみながら次の再会を一層楽しみにして別れをを告げる感じ。
作品に関しては、難しいことを語ってるわけではないのですらすらと読めてしまう。決して軽いわけではない、何たって村上春樹の腹を割った独白なのだから。
内容はさておき(というか僕が語ることじゃない)、彼は走る時に聴く音楽は基本的にロック主体である。
途中ストーンズを聞いてる場面があり、”悪魔の憐れむ歌”のバックコーラスを「ホッホー」と文字化してるのに笑ってしまう。
「ホッホー」て、ストーンズ知らない人が読んだら、ファンキーさのかけらも感じられないでしょう。むしろポップ。力技だなー。
それと、サロマ湖の100キロマラソンのところが興味深い。疲弊しきった体の次の段階を”抜けた”と表現しているが、
この言葉から、「ねじまき鳥クロニクル」の井戸にこもってるシーンを思い出さずにはいられない。確か、三部?
ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉鳥刺し男編 (新潮文庫)

ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉鳥刺し男編 (新潮文庫)

しかし、村上春樹が100キロ走ったのは1996年。「ねじまき鳥…」を書き下ろしてるのは1994〜95年。僕の思い違いであった。しかししかし…ね。
僕は、走ってる際にこの「抜ける」という感覚を得たことは、当然ながら無い。ランナーズ・ハイならあるが、これは快楽を自覚してるから全然違う。肉体的には無感覚だが意識は過敏である。
僕が、フルマラソンを走った時は、最後の5キロはただ自分を罵倒していた記憶しかない。


こんな事を考えていると、維新派の次回公演の話が頭に浮かぶ。だって、このタイトルが「呼吸機械」。
淡々と走っている時、自分の淡々とした呼吸を聴いている時、その規則正しさに自分がそうした機械であるように感じることがある。
てことで、村上春樹の上記の体験を読んだ時、これぞ呼吸機械だなと自分の中で妙に納得していた。松本雄吉さんも確かランナーなはず。違いましたっけ?
ちなみにこの公演は20世紀ヨーロッパをテクストとしているはずなので、絶対に避けられない二つの大戦がある。戦争に機械が導入された世紀である(これちょっと語弊もありそうですが)。カレル・チャペックが「ロボット」という造語をつくり出した世紀である。

ロボット (岩波文庫)

ロボット (岩波文庫)

取り敢えず僕は10月に控えてるこの公演がすごくすごく楽しみなのである。


夜、再び走る。二部連だ。朝とはケタ違いに各々がマッチしてきている、ミスコミはさほど生まれていない。やっと走れる体になりつつある。
プライマル・スクリームのスクリーマデリカを聴きながらテンポ良く。come togetherでクールダウン。

スクリーマデリカ

スクリーマデリカ


合間には、体を休めながらDVD鑑賞。


てな感じのほろ酔い日記でした。