建築の終わりと始まり

台風も来なかったし、走る。昨夜はBAJOFONDOで走る。良いリズム。

Bajofondo Tango Club Presents

Bajofondo Tango Club Presents

先週末サボっていた為、序盤から息はしんどいものの思いの外、足は軽快。後半だんだん呼吸も追いついてくる。50分は走ってた、この時期では上出来。
それにしても、BAJOFONDOのライブ行きたい。平日月曜はさすがに無理。conversationの皆様、おそらく人手足りてないのは重々承知ですが今後は関西でも。
 

今夜も走れ。VANISHING POINTで走れ。

Vanishing Point

Vanishing Point

筋肉痛が残っているものの調子は良い。45分くらいをキロ4分過ぎペースで走れてたはず。よし。ちなみにプライマルのこのアルバム、ずっと聞いてなかったが改めて聞くと凄く良い。



読み終えた本:「建築の終わり」
岸和郎北山恒内藤廣の同年代3人の建築家の対談。
アーキテクトを志す人はもちろんのこと、建築に関して知識がない人にも近代・現代の社会、そして未来を考える上でお勧めだ。

建築の終わり―70年代に建築を始めた3人の建築談義

建築の終わり―70年代に建築を始めた3人の建築談義

まず、”建築の終わり”とは何を指しているのか?それは対談の中で様々な言葉で語られているが、僕が極めて簡潔かつ的確だと思った北山恒の発言を抜粋する:
「コンビニに行くと何でもあると思っているけれども、置いてあるものしか買えないという事実に誰も気がつかない。おそらく『私』の集合体には共同体がなくて、人は共感を求めない。
『私』であることを、閉じた世界のなかでの自由を謳歌している。イデオロギーが消滅する原因は、そこにあるのではないだろうか。(179頁)」
これは一般論で語られているが、こうした建築的状況が”建築の終わり”であると言えよう。違ってたらどなたかご指摘を。


内容は、3人の建築家がお互いの意見に対して真っ向から論議している。それらが非常に機知に富んでいて読書が止まらない。褒め合うわけでも貶し合うわけでもなく、包み隠さずそれぞれの建築観を論じ合っている。
こういう言い方しかできないのが情けないが、とても勉強になった。


メモとして最も印象に残っている一つ、北山恒の発言を抜粋:
「多様で多層な社会のなかで、それだけに注目して話をするのではなく、その対象の位置にあるものを絶えず見ていかなければならないんじゃないか。メディアは絵になる建築に焦点を当てて、
『建築』という世界の構造をつくる。そんな捏造に対して批評的でいたい。WTCやビルバオが建築を表象するものではなくて、その対象にあるものが大事な意味をもってくる。
何でもない、あたりまえのものに見えているなかに、私たちの生活を大きく変える事柄がある。ひょっとしたらそこから『建築』が始まるかもしれない、と僕はそんな気がしています(147頁)」