「未来を作り直したい」

今日の日経新聞の夕刊、一面は世界経済の危機的状況が1面を独占しているが、最終面に黒沢清が載っていた。
映画で『未来を作り直したい』のだと語っている。
関西でも今週末から公開の『トウキョウソナタ』の監督、黒沢清がこのような映画を撮る(未見ですが)ことは、非常に意義深いと感じる。
と同時に、それだけ現代社会が相当危険なところに向かっているということだ。「社会の一員として僕にも責任がある」というコメントには驚いた。
こうした動きが文学や漫画や建築や多くの分野で拡大していってほしいし、これからの世代が危機感を持って挑まないといけないと思う。


先日京都を訪れた際に、いくつかの建築物も訪れていたのだが…
隈研吾の関西での不調ぶりは何なのだろうか。
京都造形大至誠館を訪れるが、24歳で磯崎新斬りをした内藤廣の言葉をそのまま借りたい。
「これが建築ならば僕は建築なんかつくりたいとも思わない」の心境。
「天上にのぼるように」がコンセプトらしいが、天上(=未来ととらえる)へ挑んでいく様はまるで感じられない。寿命の短い”現在”の建築だ。
メディア(雑誌)受けはするだろうが、写真で見るだけで十分だろう。それ以上のことは現場で何も起きない。
 
大阪市内にあるABCの新社屋も、対角にあるダイビル本館の存在感と比べて物足りない。中之島のシンボルとなろう建築がこれで良いのか、と竣工当時感じていた。
 


デヴィッド・チッパーフィールド設計のTAKビル
内外の二重の箱を巧妙に扱っているのは何となく分かるものの、車に興味のない僕にとって車屋の中に入ってうろうろするのはさすがに難しかった。
住宅内も含めて、本か何かで改めて見てみたい。


岸和郎設計の京都芸術短期大学高原校舎
日が暮れていったからというのもあるが、あまりに住宅街の中にあって探すのに若干苦労した。
「ダイハード・モダニズム」というキーワードでこの建築物を見ていたが、如何様にダイハードであり得るのか、僕には読み取れなかった。
関西にいる間に、この人の設計はいろいろと見ておきたい。


最近読み終えた本
「建築する身体」

建築する身体―人間を超えていくために

建築する身体―人間を超えていくために

ちょっと難解すぎる、詩的な文章が更に困惑を引き起こす。どのくらい僕はこの本で荒川修作+マドリン・ギンズが説いていることを理解しているのだろうか。10%解ってたら良しとしたい。
この理論を全て建築に落とし込んでいくのは現実的に無理があると思う(のだが、実際に三鷹天命反転住宅を完成させているから是非見てみたいのだが)一方で、様々なヒントが随所に散らばっているようにも感じている。
3年後だ、再読したい。
今の状況では2章のランディング・サイト(降り立つ場)辺りで読むのを止めようかとも思ったし、フランス語版の序文は今も読む気になれない。