チェルフィッチュ観劇と高架下スタジオ見学

先週、チェルフィッチュの公演を観に、みなとみらいへ。3月というのに雪が降っていたあの寒い日、早めに横浜へ、凍えながら近隣の建築を見学…日を間違えた。

京急高架下文化芸術活動スタジオ

曽我部昌史「黄金スタジオ」:みかんぐみとしてでなく、大学研究室としてのプロジェクト。黄金町駅から川沿いを歩くと、微妙に大きさ・形を変えた開口を持つ高架下の建物群。全面開口ではないけど、側の道路を歩くと中(スタジオ)の様子が窺える。アートによるまちづくり、を掲げる拠点として違和感の無い、心地よい佇まい。体は冷え切っていたが、ワクワクさせられた。試聴室その2でホットコーヒーをいただき、一休み。


飯田善彦「日ノ出スタジオ」:日が暗くなり、雨も強まってきた中(30分後には雪)、高架下からこぼれる温かな光。黄金スタジオとは異なり、全面開口の3つのボリュームが立ち並ぶ。気持ちの良い高さレベル。2階の通路も、その通路下も。高架下の商店街で感じられる心地よい狭さ=温かさのようなものを空間でつくりたかったのかな。


で、チェルフィッチュの公演「わたしたちは無傷な別人であるのか?」@横浜美術館ツイッターで行き詰まりとつぶやく人がいて、岡田さん自身がつっ込んでいたが、全然行き詰まりなどとは感じず、『三月の5日間』以降脈々と息づいてきたさまざまな要素が新しい形で舞台上で表現された発展、と感じた。あの、近くに座る人のお腹の音が響き合う静かな舞台において物語と身体の素晴らしい強度が作品に絶えない緊張感、観る人(少なくとも僕)に様々な想像を喚起させる。物語、身体、そして時間。京都芸術センターで5年前くらいに岡田さんが演出してた作品を観ながら思い出した。舞台で流れる時間と現実の時間をどう扱うかという実験的な試み、と記憶している。キッチンタイマーで持ち込まれた現実の時間が物語の時間に入れ込まれて、物語を進める発話にも独特な間が持たされているこの作品では、複数の時間が緊密な関係を保ち続けていて、5年前のあの試行をより高度な段階へと持ち上げた、という印象を受ける。
六本木クロッシング横浜トリエンナーレといった美術の企画展に映像で参加するチェルフィッチュも観たが、『三月の5日間』や『フリータイム』は映像でもその面白さが十分に伝わってくる、舞台作品としては奇抜なものだった。それに対して、今回の作品はDVDで観ると…寝るだろうな。舞台作品としての強度がこれまで以上にある、と言えるのでは。
もっともっと考えることがこの作品にはある。