高橋悠治の講義を受ける

高橋悠治レクチャー・コンサートへ@京都芸術劇場春秋座

京都造形芸術大学大学院の連続公開講座特別企画であり、現代音楽シリーズ2008のイベントの一つであるが、何にせよ高橋悠治の演奏が千円で聴けるなんてとんでもない機会、と思い足を運ぶ。


演奏等を交えて約3時間のレクチャー、テーマは「記憶とクリナメン」。
このテーマ通りにレクチャーが進められたかどうかはさておき、様々な示唆に富んだ講義であったことには違いない。

メモを取っていたので、まとまらないながらも書き残しておこう。
『20世紀時点で既に存在していた音楽の多くはヒエラルキー的秩序によって構成されている(特に西洋音楽)。主旋律(メロディー)があって、低音が存在し、間を伴奏が埋めていく。それは一つの制度・方法論に過ぎず、そこにすがりつくには限界がある。
70年代の高橋悠治はこのヒエラルキー構成を崩すことを試みた。音・メロディーを不確かで浮遊感のあるものにしていく。そのメソッドとして、その線(メロディ)に影をつけることやピアノをプリペアドすること、偶然性を利用することを用いた。そうして生み出された音楽は、個々に独立した線達(多種な要素から構成された音の共同体)であり、空間的なものとして立ち現れる。空間的なもの=演奏する人の手から離れ、個々に独立して浮遊する線達の音楽は、未だ見ぬ新しい形(prefigurality)かもしれないし、もしくはヒエラルキーな音楽以前に立ち戻っているのかもしれない。どちらにせよ、秩序化された方法論を逸脱していくことは多様性を生み出していくことに他ならない。』


正直、本当にこういうことを言っていたかは全然自信がない。自分の解釈が入っているし、書きながら自分でも理解できていない。


休憩後の80年代(?)以降の話は僕には全然分からなかった。説明がちょっと少な過ぎた。
最後の20分程度の演奏はやはり良かった。レクチャーで語っていた時間(リズム、間=音楽の身体)と空間(音色、高低、大きさ)について考察できるものだった。


最後にテーマについてだが、クリナメンは理解できていないが、記憶については大友良英の著作「MUSICS」の中での高橋悠治のコメントを書き記しておこう:
聞こえる音は すべてすでに記憶にすぎない 音の残像にすぎないので


とりあえず密度の濃い3時間、疲れた。こうして振り返るだけでも疲れた。
一点いただけないのは、当日朝に舞台芸術センターに終了予定時間を問い合わせたところ2時間で終了という回答を頂いたのだが、あれは一体何だったのだろう。おかげでスケジュールが狂ってしまった。


他にも展覧会を訪れたのだが、明日またゆっくり書きたい。


最近観た映画
フローズン・タイム」:映画を観て久しぶりに少しがっかりした。映像美等で評価されそうだが、それだけかな。

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