久しぶりに演劇をいくつか観る

France_panの「家族っぽい時間」@AI・HALL
関西を離れてしまったら、この劇団の作品を観る機会も当分無くなりそうだから、ちょっと長く書こう。
舞台美術は、中央にリビング用の丸テーブル。上手奥にベンチ、下手に古びた流し台。会場に入った時には既に車イスに座った役者一人でテーブルを囲んでいる。地点の緊張感のある公演前を思い出す、会場は賑やか。タイトルのように一つの家族を中心に話は進行していく。家族構成は両親と二人の息子で、兄は知的障害者。この家庭に出入りするのは、弟の家庭教師と介護士
まず演出に関してだが、この人の演出は音楽でいうサンプリングのようで面白いのだ。前述のように公演前は地点のようであったし、平田オリザのような時間の取り方だったり、この公演ではさほど感じなかったが岡田利規のようなところもあり。この作品のタイトルではないが、いろんなぽさを敢えて意識的に使っているような印象がある。来年の演劇計画でどう評価されるのだろうか、楽しみである。
脚本に関しては、決して面白かったとは言えない。まず、タイトルの「家族っぽい」ということはどういう意味なのだろうか気になった。家族が家族っぽいということは、何か家族像というものが存在して、そこからいくらか逸脱した状態が「っぽい」と表現されていると考える。ならば「っぽい」状態は多様であって良いが、「家族」については何かしらの設定が必要であろう。作品を観る前の僕の想像は、「家族」=戦後に成立した、仕事と家庭が役割分担された近代家族で、「家族っぽい」=近代家族という枠では支え切れなくなっている現代の家族、だと思っていた。しかし僕には、この作品から近代あるいは現代の家族について語ることはできないと感じた。理由はいくつかある。一つに、この作品に出てくる家族の設定が僕には最後まで掴めなかった点がある。食事を家族で囲うシーンから舞台はスタート(ラストも確かそう)するが、(楽しく語り合ってはいないも)こうした団欒的状況は現代において果たして日常的な家族の光景であり得るのか。確かに父親が失業中という設定であるものの違和感を覚える。障害者を扱った点も一つ。アフタートークの内容を使うのは適切ではないかもしれないが、トークの中で演出家は、両親を演じる役者は両親らしい人を使いたい(年齢的であれ、外見上であれ)と言い、そうしない劇団を否定的に語っていたが、障害者はそれと完全に切り離せられるのかはかなり疑問である。また、障害者に限らず高齢者等の家族における依存者とどのように共生していくかが現代の問題の状況だが、そのあたりの示唆がなかったのは残念。介護士に関しても、作品中で介護士の問題のようなものを表現しようとしていたが、僕の記憶ではアフタートークの中で介護士をボランティアと演出家が呼んでいたのにびっくりした。僕自身介護に関する知識が少ないので何も言えないのだが、人材不足・給与水準が問題となっている現状とは異なることは確かだろう。自分の妊娠中の喫煙が原因で子どもが障害を持ったのかも知れないという母親の突然の独白には唖然。
僕はこの作品から何か社会に対する示唆を考えるのでなく単にドラマ・コメディとして観るべきだったのではないか、というのが感想である。家庭教師は宇宙人だったし。ただ、そうするならサンプリングする対象ももう少し変えた方がより面白くなるように思う。
この公演とは関係のない話になるが(いや、若干関係はあるかもしれない)、役者が挨拶をして公演が終わった瞬間に僕の前に座っていた3、4人が一斉に携帯の電源を入れていた(3秒以内)。映画館ではよくある光景だが、ぞっとする。そんなに何か急ぎの用事があるのか。


演劇計画2008リーディング公演
三浦基演出作品「チェンチ一族」:地点の通常の公演のように、独特なリズムのある台詞でより物語の本質に迫ろうとする演出でのリーディング公演。「チェンチ一族」に他のアルトーの作品を貫入しているのはとても面白かった。通常公演との差異について、というよりリーディングによって浮かび上がってくる要素を考えていたが、明確にこれというのは解らない。本公演を是非観てみたい。
筒井潤演出作品「小説家 裘甫氏と京城の人々」:多くの観客がウトウトし、疲れていたよう。台本を持って極めて普通に台詞を発音しているのが2時間続けば、そりゃそうだ。役者がまだ台詞を覚えておらず、演出も大して決まっていない時点での稽古のよう、いろいろ削ぎ落としていく意図だろうか。けど、舞台上に抽象的な舞台美術があって音楽や照明で演出していたりしたのでちょっと理解に苦しむ。もっと、リーディングに向き合って欲しかった。