定点観測

岩下徹の放下21を観る@京都芸術センター
無音、即興、60分という条件でのソロダンス。約3年前にアイ・ホールで放下19を観て以来だが、観る側にとっても定点観測的である。音楽はなく舞台美術もライティングも最低限の舞台で、鑑賞者はひたすら目の前のダンスと向き合うことしかできず、ある意味過酷な状況に立たされている。その際の視点は非常に素直で、その時点での自分の興味の対象が何となく分かる。3年前は岩下徹の足の動きに驚かされた記憶があるが、今回は空間と即興の動きとの関係性に思考が働いていた。公演後のトークセッションもその時観たものが一体何であったのかを整理する意味で面白い。結局何か解答が出るわけでもなく唯々凄いのだが、今後も出来れば継続して観ていきたい。


「新国誠一の《具体詩》 詩と美術のあいだに」 展を観る@国立国際美術館
美術の世界に越境してしまっている新国誠一の視覚詩は、配置にしても選ばれてた文字にしてもアイディアにしても衝撃的。詩人としてのコトバに対する深い考察があればこそだろうというのは、展示されている制作メモを見れば一目瞭然である。これが図録に載っていなかったのは残念。それにしても国立国際美術館の独自の企画展はクオリティーが高い。今回も建畠館長だからこそ実現できた相当マニアックな展覧会である。図録に付いている音響詩を聴きながらこの日記を書いているのだが、関連イベントで6日に行われた足立智美による朗読(パフォーマンス)も同じくらい衝撃的だった。このパフォーマーの存在を知らなかったのだが、ちょっと凄い。載っけてるのは新国誠一の詩ではないが足立智美の朗読。海外でも似たことしている人もいるようだ。それにしても、節約しなければならないのに図録買ってしまった…
 

新国誠一works 1952‐1977

新国誠一works 1952‐1977

最近読み終えた本
「家族を容れるハコ 家族を超えるハコ」

家族を容れるハコ 家族を超えるハコ

家族を容れるハコ 家族を超えるハコ

エピローグで山本理顕との共著と呼びたいくらいと書かれているように、上野千鶴子山本理顕の対談がこの本のコアとなっている。他の対談やエッセイは、その補足であったり蛇足であったり。家族を考える上で、住宅を考える上で、社会学者だけでは駄目だし、建築家だけでも駄目であることを強く感じる。上野千鶴子の発言はやはり刺激的であるが、全てに賛同できるわけではなくて若干極論過ぎる感があるし、山本理顕の発言には確かに説得力があるが、クエスチョンが付く発言が所々ある。お互いの見逃している部分・見誤っている部分を補いながら新しいモデルに向けて前進していっている感がこの二人の継続的対談にはある。例えば、「行政や建築家の自己評価も建築ジャーナリズムの業界評価も、住宅が完成したときに終わっている。しかし、住み手の生活はそこから始まります。(中略)建築家も建築ジャーナリズムも、利用者つまり住み手による評価にさらされてきたことがなかったのではないか」という上野千鶴子の指摘に対して、建築サイドは受け流すのか、真摯に受け止めるのか。山本理顕の返答は「他人事のようにいえば、やはりユーザーというより消費者の欲望を刺激しようとしたのではないかと思います。公共も民間も含め、生活者、居住者といった視点が欠けていたのではないかという気がします」。建築家がつくる、社会学者が調査するというサイクルはとても意義のある共同作業だ。